星野玲子
Reiko Hoshino
プロフィール
REIKO HOSHINO PROFILE
清瀬市に生まれる
星野繁家の長女として清瀬の病院で生まれる
清瀬小・清瀬中学校を卒業
都立保谷高校入学
日本大学文理学部 社会学科入学
株式会社丸井に入社
販売・バイヤー・店舗企画などを経験し
ギフト商社に転職。
国内や海外からの商品仕入れや新店舗の開設で
全国を飛び回り、カタログやWEBサイトの制作でデザインの仕事も手がける。マーケティングや広報部門の責任者も務める。
私と清瀬、街への想い
MY STORY
清瀬生まれ、清瀬育ち
そして父も清瀬生まれ清瀬育ち、母も清瀬育ち!という生粋(自分で言います 笑 )の清瀬っ子である私です。
生まれは前々の東京オリンピックの1964年。
清瀬市元町の武谷病院(今の「きよせの森コミュニティクリニック」)で生まれました。
幼少の頃から小学校まで、私の遊び場は歩いて1分の水天宮の境内と家の周りの森でした。
近所に住む幼馴染や兄弟と森の中に秘密基地を作ったり、基本外を駆け回る子どもだったのを記憶しています。
小学校は清瀬小学校
清瀬巨木100選というのがあって、清瀬小学校の銀杏は思い出です。
そして中学校は隣の清瀬中学校。3年間女子バスケットボールクラブに明け暮れてました。
その頃は、地元のお祭りも盛んで、お祭りにみんなで集まるのも楽しかったのを覚えています!
幼少の頃は、柳瀬川まで行って、蓬(よもぎ)を摘んで草餅を作ってもらったり、小学校の頃は旭丘団地のショッピングセンターまでお年玉もらったら買い物に行ったり。
現在、清瀬市で取り組んでいる開発事業の清瀬駅南口地域児童館・中央図書館等複合施設及び中央公園=いまの中央公園(梅園)には市民プールもあって、とにかく清瀬じゅうであそび回っていたものです。
部活と勉強に励んだ高校時代
高校は、都立保谷高校に進みました。
比較的自由そうに見えた校風に憧れて選んだ高校ですが、思った通りでした。
友達にも恵まれ、楽しい高校生活だったのですが、女子バスケットボール部に所属しており、都大会ベスト16に入る強いチームであったこともあり、3年で引退するまではそれはそれは厳しい部活生活を送ってました。
多分、今私が持っている「根性魂」みたいなものはこの時代に築かれたのだと思います。
3年で引退してからは進学すべく、猛勉強??を清瀬図書館に通い、大学に進学しました。
大学、そして社会人
大学は日本大学、文理学部、社会学科です。
その頃はまだ、明確に何がしたいということもなく進んだ大学でしたが、何かを学んだというよりは、アルバイトばかりしていた学生でした。
でもその時にマーケティングと人とのつながりに興味をもち進んだ就職先が流通業でした。
最初に就職したのは、株式会社丸井です。所沢の丸井に2年弱在籍した後、本社に移動しバイヤーとなりました。
商品の流通や、販売にについて学んだのはこの時です。
父との思い出、私の街づくり
丸井に在籍中の1995年に、父が市長に初当選いたします。
お休みをもらって、父の選挙を手伝いましたが、父の最初の選挙は本当に大変だったのを覚えています。
同年に自分も結婚いたしました。
その後、ギフト商社に転職しバイヤー、広報、マーケティングなどを手がけ、がむしゃらに働いてきました。
父の在職中は、週末の休みには必ず両親と一緒に食事をし、いろいろな話をしました。その中心はやはり街づくりが話題の中心でした。
2011年に父が引退し翌年なくなるまでは、ずっと父といたといってもおかしくないくらい一緒の時間を過ごしています。その父が亡くなって10年が経ち、私は父が市長に初当選した歳にまもなく差し掛かります。
愛する清瀬のために
父はいつも、”山椒は小粒でもピリリと辛い”「清瀬は決して大きくはないが、小粒でもキラキラと個性が輝く街にしていきたい」と街にかけた想いを語っていました。
私もそうです。この清瀬が大好きです。
だからこそ、父の教えを引き継ぎ、もっと清瀬をよくしていきたい。
民間企業で様々なプロジェクトに携わりながら、この社会経験は、いつかその時の為に活きるはずと思い描いて今に至ります。
そして、今が思いを実行に移すそのときです。
これまで民間企業で培ったノウハウを活かし、私だからこそできる「“街づくり”への働き」を実行するときです。
夢をカタチに
”夢をカタチに”「口だけではダメ。実現させてこそ意味がある。」そんな父の教えを私は守り、大好きな清瀬のために動きます。
そして、皆さんの声を市政にしっかりと届け、すべての世代が安心して暮らせる街づくりを目指していきます。